2007年5月18日金曜日

フロイト博物館


ハムステッド丘陵は閑静な住宅地としてロンドンでも人気があります。
昔から様々な人々がこの地を生活の場に選んでいます。少し歩いただけでロンドンの中にいるとは信じられない緑の多さや高台から望むロンドンの街も数え切れない魅力の中のひとつです。
そんな住宅街には昔こんな人が住んでましたよ、って云う標がおうちについています。
これはブループラークって呼ばれていて、直径が4-50センチ位の青いプレートです。
ロンドンのあちこちで見ることが出来て誰がいつ、どれくらい住んでいたか、その人の職業は何かまで書いてあります。
「誰、これ?」ってのも多いんだけど、へぇーって云うのも結構あります。

話をフロイト博物館に戻すと、この博物館は彼が住んでいたおうちをそのまま博物館にしましたっていう所です。
だからおうちの正面にブループラークが付いてます。
読んでみましょう、「シグマンド・フロイト、1856年-1939年、精神分析を始めた人、ここに1938年から39年まで住んだ。」とあります。
「なぁーんだ、1年だけじゃん」とがっかりしないで中に入ります。
1945年にアウシュビッツが開放されました。強制収容所を稼動させる第2次世界大戦の少し前からヒトラーは気に入らない著書の焚書をまず、ドイツで始めます。フロイトの著書も健全な精神の妨げになる毒書としてベルリンで1933年に公衆の見守る中焼かれました。当時彼は家族とともにオーストリアに住んでいたのですがとうとう38年にはオーストリアはドイツに吸収されてしまいます。
公開焚書のすぐ後に仲間のユダヤ人精神科医たちは亡命していきますがフロイトはこのオーストリア吸収まで踏みこたえます。年齢は80歳を超え、舌癌に冒されながらも47年間住み慣れた家をとうとう後にして彼はイギリスにやって来ます。
交流を深めたユングとともに訪れたことのあるアメリカを選ばずにイギリスを選んだのはなぜでしょうか?
1936年に彼の功績を記念して英国王立協会が彼を名誉終生会員にしたのも影響があったかも・・・。アメリカを「大いなる間違い」と呼んだのはフロイトでしたよね。
友人たちへ宛てた手紙には「18歳のときに、初めて訪れたイギリスにいつかイギリス人として住んでみたいという気持ちを持った」とあります。
モラヴィア(現在のチェコ共和国)で生まれてウィーン(1919年まではハンガリー、その後1938年まではオーストリア、後、ドイツに吸収)に住んだユダヤ系ドイツ人という複雑な生い立ちの彼には「雨と霧と酔っ払いのあふれる保守的なロンドン」は自由と安全と普遍を象徴していたのかもしれません。夏目漱石と同じころに同じロンドンを見て、こんなにも正反対の感情をもったことはやはりお互いの生い立ちの違いからでしょう。
この家は彼がイギリスに来て約3ヵ月後に購入しました。息子の尽力でなるべくウィーンで開業していた当時の内装に近づけて高齢の彼をいたわったようです。亡くなる直前までフロイトは執筆にいそしんだり友人を迎えたりしてこの家で最後の1年を過ごしたわけです。
フロイトが亡くなった後もその家族はここに住み続けました。
特に娘のアンは児童心理学に力を尽くした人で彼女に関する資料もたくさん見ることが出来ます。
この博物館は彼女の亡くなった1982年に彼女の遺志で博物館になることが決められました。公開は1986年からです。


見逃せないのはやはりオリジナルの精神分析用の寝椅子。精神分析といえば寝椅子に座った患者が眼を閉じて医師に答えるというイメージがすぐに思い浮かびます。これはフロイトが実際に使ったものです。(残念ですが見学者は座れません)ダリの描いたフロイトのフツーの肖像(ダリだからって期待しないでね、ごくフツーの素描です。)おみやげにお薦めなのが「エゴバッジ」とフロイト人形。押すとキャッツの「メモリー」が流れてきます。

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