パリの観光をすると、ガイドから「これはナポレオンが~」みたいな話をたくさん聞きます。
ナポレオンはフランスの英雄のひとりですが、イギリスではあまり英雄としての扱いは聞きません。
イギリスの敵だっただけではなく、ヨーロッパとその周辺を戦禍に巻き込んだ人物ですからね。
それだけでなく、世界一の美術館をパリに作るという目的のため、ありとあらゆる征服先の施設から美術品を略奪しています。
例を挙げると、
ヴァチカンを含むイタリアから;
- 60点以上の彫刻(ヴァチカン、カピトリーノ美術館等)
- 西暦900年以前のすべての写本(ヴァチカン図書館)
- サン・マルコ寺院のブロンズの馬4頭と翼のあるライオン像
- モデナ公国・パルマ公国から絵画各20点ずつ
- ヴェネチアからはヴェロネーゼの描いたカナの婚礼
ベルギーやオランダからもたくさんの絵画が略奪されました。
- 約200点の絵画(うち30点のみパリ、残り170点は地方へ分散)
- アントワープからルーベンスの名作3点(『十字架降架』等)
- ルーヴェン大学から書籍約5,000冊
ドイツ・プロイセン地方;
- カッセル・ギャラリーから絵画299点(最初の徴収で48点、のちマルメゾンへ)
- シュヴェリーンから絵画209点
- ブラウンシュヴァイク公から絵画約78点(ラファエロ、ティツィアーノ等)
- ベルリン&ポツダムから絵画60点、50万マルク相当のメダリオン、76点の彫刻宝石
- ブランデンブルク門のクアドリガ
- アーヘン大聖堂から大理石の柱10〜12本、プロセルピナの石棺
オーストリアからは;
- ベルヴェデーレ宮殿だけで絵画250点
- ザルツブルクなどからも物品が撤去
(略奪品目やその数は資料によって違います。私が参考にしたのは The Art Confiscations of the Napoleonic Wars という文献で1945年の Dorothy Mackay Quynn さんのもの)
それらが集められたのは現在のルーブル美術館。
(もちろんナポレオンの掠奪に関係のない所蔵品も多くあります)
こんなことを書くとじゃあ大英博物館はどうなのって思いますよね。
正直なところ、ガイドをしていて返すことを考えたほうがいいんじゃないのって思うものはいくつかあります。
モアイ像(リンクします)とかね。
でも返さなくてもいいかなって思うものもあります。←誰も私には聞いてくれないけど😁
そんなひとつがロゼッタストーン。
人けが無い時にさっと撮った写真でちょっとボケてます(笑)
それ自体が貴重な遺跡であることを否定はしません。
でも同じ碑石は5つ以上エジプトで見つかっていて、エジプトカイロ博物館にロゼッタストーンよりも完全な形の同じ碑石もあります。
そして、石そのものの価値よりも、発見後のこの石の研究とその成果に意味があると思うので、価値はあと付けだといえるのが、別にエジプトに返す意味があるのかと考える理由のひとつ(これも私の個人的な意見なので反対する人もいると思います)
さて「ロゼッタストーンがなぜ大英博物館にあるのか? 」というのが今日のおはなし。
はじめにナポレオンの話を持ってきたのは理由があります。
1799年、ロゼッタストーンが見つかった時、エジプトはオスマントルコ帝国の一部でナポレオンの遠征先でした。
正式にはナポレオンが将軍という立場で引き連れていたフランス政府軍です。
まだ彼が皇帝を名乗る前ですからね。
このエジプト遠征はイタリア遠征が大成功だった彼の人気を恐れて、フランス政府がナポレオンを遠くへ追いやったという説もあります。
その信ぴょう性はともかく、フランスがエジプト遠征をおこなった最も大きな目的のひとつは、エジプトを完全に支配下に置くことでイギリスの船が紅海へ入れないようにするため。
するとイギリスがインドを含むアジア各地に行けなくなるので経済的なダメージを与えることができて、その後にイギリスを征服する、みたいな予定だったそうです。
そんなわけでロゼッタストーン発見の前年 1798年、地中海を渡ってアレキサンドリアに上陸したナポレオン軍は、南下してカイロを占拠、カイロの宮殿を総司令部兼住居にしました。
イタリア遠征で数々の美術品をフランスに持ち帰ったことに味を占めていたたナポレオンですが、エジプトではヨーロッパにはまだ未知のエジプト考古学や民族学の分野を開拓しようとしていたようです。
というのもイタリアには美術品の鑑定のためにわずかな美術専門家を連れて行っただけなのに、エジプト遠征には160人という巨大な「エジプト科学芸術委員会」を引き連れていったから。
そしてその委員会の本部もカイロの別の宮殿に設置されました。
皮肉なことに、ロゼッタストーンはこのエジプト科学芸術委員会の発見ではなく、砦の修復工事現場から一般の兵士が見つけました。
場所はカイロから200㎞以上離れたロゼッタという町。←なのでロゼッタストーン。
この修復工事の指揮にあたっていた軍人の名前はピエール・フランソワ・ブシャード。
彼は陸軍の工学エンジニアとしてロゼッタにいたわけですが、エジプト科学芸術委員会とかかわりもありましたから、碑石の発見が報告されたあと、すぐにカイロに連絡を取ることができました。
彼がいなければただの石材として砦の基礎部分に消えてしまったかもしれません。
ロゼッタストーンは艶のある表面に3種類の文字が彫られています。
そして完全な形ではなく上部がかなり欠けています。
古い砦の材料としてリサイクルされていた、ただの石だったのをヨーロッパの研究者たちが価値を見出したものなのです。
さて、フランスで政権が揺らいでいるとのうわさを聞き付けたナポレオンは 1799年10月に軍を離れてクーデターのために帰国します。
残された軍隊はナポレオンがいないまま、彼からあとを任された別の指揮官の元、戦いを続けます。
しばらくしてその指揮官は殺されてしまい、無能のメヌー将軍が次の指揮官になりましたが、1801年にイギリス・オスマントルコ軍に敗れてしまいます。
その戦後協定がアレキサンドリア条約で、その16条に「フランス共和国のために収集されたアラビア語の写本、彫像、その他の収集品は、公共の財産とみなされ、連合軍の将軍たちの処分に委ねられるものとする」とあります。
メヌー将軍はロゼッタストーンを自分の私物として隠してフランスに帰国しようとしましたが、すぐにバレてしまいました。
この戦後協定に対するフランス側のエジプト科学芸術委員会の抵抗は激しいもので、彼らとの協議の結果、学者たちが自ら採集した「生物の標本(昆虫や動物)」や、自ら執筆した「研究ノート、スケッチ、図面」などは、最終的に個人の財産として認められ、フランスへの持ち帰りが許されました。
そしてロゼッタ・ストーンを含む「古代の彫像、碑文、考古学的遺物」や「アラビア語の古文書(写本)」は、弁明の余地なく「公共の戦利品」として完全に没収されました。
この協定でロゼッタストーンは正式にイギリスの戦勝品となって、現在は大英博物館に置かれているわけです。
そしてフランス軍が持ち帰った研究資料は1830年に「エジプト誌」として全23巻(テキスト9巻、巨大な図版11巻、地図などを含む)の壮大な出版物になり、ヨーロッパ中にエジプトブームが起こりました。
それではロゼッタストーンを読み解くのはまた次の機会に。
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