2007年7月5日木曜日

標準時間


流通が盛んではなかった時代には、世界というのはその人の住んでいる教区の外側を指す場合はまれでした。
そのような世界では、物の価値や単位というのは、その地域でさえ通用すればいい訳です。
時間にしても、住んでいる場所の太陽が一番高いときが昼でいいわけです。
ところが鉄道の発達したヴィクトリア時代には、町によって時間が違うと、時刻表が利用できません。
そこでまず、国の中で時間を合わせる必要が出てきました。
時間を合わせるということで私たちが思い浮かべるのはグリニッチ標準時間です。
ここが子午線のひとつになったのは1675年に天文台が作られた時ですが、英国の法律で標準時間と定められたのは1855年というから驚きです。
ここで私たちは少し考えてみる必要があります。
ある一定の場所の時間を標準にするためには、持ち運びのできる、精巧な時計が必要になります。
グリニッチに天文台が置かれた時には、まだそのような精密な時計は発明されていませんでした。
それでは標準時間を他の場所に知らせることができるだけの、正確な時計はいつ出来たのでしょうか?
英国では海運事故が相次いだ18世紀初めに2万ポンド(現在の価値で2百万ポンド)の賞金を出してアイディアを募りました。
そしてこの賞金を手にしたのはジョン・ハリソンという名前の知られていない職工だったのです。
彼の作り上げた、そして改良を重ねた、H1型からH4型までの時計はグリニッチ天文台の博物館に展示されています。
この彼の功績によって、とうとう私たちは標準時間を他の場所で利用することが出来るようになって、また、それによって航海中の位置という、目印のない場所の確定が可能になりました。
時の王様はジョージ3世です。
彼は自然が大好きで、農業を楽しむためにリッチモンドの周りに土地を買い集め、また金星の観測の為に1769年に王様の天文台を近くに作りました。
彼はこの「キングス・オブサーバトリー」を通る子午線を王の時間と定めて、早速最新の時計によって、国会議事堂とホースガーズ・プレイスの時間が決められました。
英国ではこれが法律で定められたオリジナルの標準子午線です。
写真はこの子午線の記念碑。
小さな白い建物がキングスオブザーバトリー、今は貸事務所として使われています。

英国で使われている長さの単位、フィートやインチなども、もともとは人間の体の一部が基準になっていましたから、場所によって差がありました。
既に12世紀ごろから国内の長さの基準を統一しようとの試みがあって、ヘンリー1世は自分の鼻から指先までを1ヤードに定めたり、建築家として有名なクリストファーレンは、振り幅が1秒の振り子の長さなどのアイディアを出しています。
19世紀にはヤード原器が作られて、国会議事堂に保管されていましたが、1834年の火災で焼失した後、1855年に新しいものが作り直されました。
他の国でも18世紀末ごろから世界で共通の長さの単位という考えがでてきます。フランスの国会でもこの問題は取り上げられて、3つの案からの選択となります。
赤道の距離を利用、北極から赤道までの距離の利用、イギリス提案の振り幅が1秒の振り子の長さ、の3つです。フランスの学会では、時間という別の要素が関係しないこと、測量がしやすい事の2点から、北極から赤道までの緯度の長さから単位を得ることに決定しました。
数年をかけて調査隊がダンカークからバルセロナまでの測量の結果を利用してこの距離を計算し、その一千万分の一に当る、メートルの単位が1798年に決定しました。
イギリスではナポレオン戦争中と言うこともあって、この結果には何の興味も示しませんでした。
ところがそのほかの国々では1851年のロンドン万国博覧会、続いてパリの万国博覧会などの国際的な集まりを経て、世界で通用する基準を求めて1875年にパリで「メートル条約」が17カ国の参加の上調印されます。その席上でパリ時間を世界の標準時間にすることも話題に上りますが、決定は別の国際会議に譲ることになったのです。
そしていよいよ1884年にワシントンDCで国際子午線会議が、ラテンアメリカ10カ国、ヨーロッパ10カ国に加えてアメリカ、日本、リベリア、オットーマン帝国、ハワイ王国の合計25カ国の参加で開かれました。
一ヶ月にわたる話し合いの結果22票を集めたグリニッチ子午線が世界の標準時と決められたのです。
これに反対したのはドミニカ共和国でフランスとブラジルは棄権しました。
イギリスは気をよくしてこの年にメートル条約に調印しましたが、フランスがグリニッチ標準時間を認めたのは1911年のことでした。
いまだにフランスの一部のガイドブックでは、パリの子午線が世界で最初の標準子午線だと書いたものが存在して、一般の人たちを混乱させています。

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