
この作品は「聖エミディウスのいる受胎告知」という名前で、カーロ・クリヴェッリ(Carlo CRIVELLI)というベネチアの画家が1486年に描きました。
イタリアのアスコリという町の、サンシルベストロ教会のための祭壇画です。
このリンクで
ナショナルギャラリーのこの絵画のズームを見ることができます。
この部屋には同じ画家による作品が幾つか並んでいて、どれも宗教がテーマですから、日本からの観光客はただ通り過ぎていく人が大部分です。
タマにこの絵のインフォメーションが載っている、小さなパネルに目を向ける人もいますが、タイトルと年代以上に深く読む人は殆どいません。
教会に絵を掛けたのは、飾るためではなくて文盲の人たちに福音書を理解させる手助けの為です。
教養とは無縁の人々に、キリスト教とは何か、なぜ教会が大切なのかを教えようとしました。
教会に入ってくる収入は、人々からの税金や寄付、諸手続きの費用、時代によっては免罪符の売り上げなど、全て信者から入ってきます。
つまり「宗教画は教会の広告みたいなもの」だと思って差し支えありません。
だから現在の私たちがテレビのコマーシャルや街中のポスター、ショーウインドウや新聞広告を見ることと基本は同じなのです。
もちろん私はキリスト教をバカにしているわけではありません。
宗教自身とと宗教画はまったく別のものです。
そして私が今ここで書いているのは、16世紀までの宗教画のことです。
それ以降は個人の収集や投資目的、個人的な礼拝のための宗教画も珍しくなくなりますが、16世紀までの宗教画は一部の例外を除いて、その殆どが教会や修道院のために描かれています。
どんな商品をどの客層にアピールするか、広告会社のクリエーターはマーケティングにも時間を掛けます。
宗教画も同じ。
タレントの人気度や地方限定版の商品など、考えなくてはいけないことは山のようにあります。
商品だけではなくて、会社の総合的なイメージも広告では大切。
最近はイメージ優先で、いったい何の商品を扱っているのかわからないといった広告もあります。
宗教画も同じ。
宗教画を描いた画家たちは、フリーランスの広告クリエーターたちです。
たまには会社経営の大きなところもあります。これは工房と呼ばれました。
クリヴェッリはフィレンツェで流行っていたような、やわらかいイメージではなくて、どちらかというと厳格さを前面に出しています。
隣の部屋がフィレンツェ絵画ですから比べてみると面白いと思います。
受胎告知というのは、新約聖書からの引用で、大天使ガブリエルが処女マリアに「あなたが神様の子供を身ごもりました」とお知らせする場面です。
キリスト教で大切な福音書のエピソードが幾つかあります。
その中でも特に大切なことは3つ。
1、マリアの懐妊が汚れのないものであるということ。
2、キリストが人々の罪をかぶるために処刑されたということ。
3、キリストが復活したこと。
「聖エミディウスのいる受胎告知」はそんなに大切なシーンなのに、かなり俗っぽいところが私は大好きです。
この作品は人物や町の様子、ディテールに凝っているので、宗教画だとは思わずに、風俗画として観るとたくさんの面白さが発見できます。
今回は説明は省きましたが、シンボルがたくさん出てくるので、そちらから楽しむのも手です
私はアスコリに行ったことはないのですが、町の様子はいまだにこの絵そのままなんですって。
グーグルで町の写真を見つけました。

ホントにそのまま雰囲気が残ってます。
アスコリは1482年にローマ法王シクストス4世から町の自治権を認められました。
その通知が3月25日、受胎告知のお祭りの日だったので、この日がアスコリにとって特別な日になったそうです。
イタリア人って面白い。
なんでも自分たちに都合のいいように変えちゃうのはお手の物。
マリア様はいつの間にかイスラエルからイタリアのアスコリという町にお引越しをしてきたみたいです。
彼女は婚約をしていて、花嫁道具になるいろいろな雑貨類が寝室に所狭しと並んでいます。
実家はどうやら随分と裕福なようで、寝台を見ても刺繍の入ったシーツやクッション、カーテンも豪華です。
天井のパネルの見事さ。
王侯貴族でも、これだけのものをこの時代に揃えるのは大変だったろうと思います。
全体に占める主要人物の割合だって、ガブリエルもマリア様もちょっと小さくないですか?
この絵では町の様子にクリヴェッリの情熱が奪われてしまっています。
大天使ガブリエルの隣には、この町の守護聖人「聖エミディウス」
彼が手にしているのはアスコリの町のモデルです。
この絵を見ていると、せりふが聞こえてきます。
ガブリエル「マリアよ、そなたの・・・」
聖エミディウス「すいません、ちょっといいですか?」
ガブリエル「・・・忙しいんで、あとに・・・」
聖エミディウス「イヤ、そんなに時間はかからないんで」
ガブリエル「いい加減にしてください、この方に神の・・・」
聖エミディウス「ローマ法王様からのお使いなんですよ」
ガブリエル「こっちは神様からのお使いなんです」
聖エミディウス「この町にとってはこっちの方が大事なんですから」
ガブリエル「・・・」
マリア「この姿勢って、結構疲れるんですけど・・・」
町の人たちが見ているのは聖エミディウスなのか、ガブリエルなのか、疑問に思えてきたでしょう?
神様の聖なる光は聖エミディウスを無視してマリアに注がれています。
でもアーチの上では、しつこく自治に関するローマ法王からのお知らせを読んでいる人が登場します。
伝書鳩(檻に入れられている)が見えるでしょう?
こんな俗っぽいところでちゃんと受胎できたか、心配になってしまいます。
この絵は「無原罪の御宿り」同じ画家です。

マリア様は罪なくしてキリストを受胎しただけではなく、そのうちお母さんのアンさんもヴァージンでマリア様を身ごもった、という考えが始まります。
全ての宗派が賛同した考えではなかったので、これは広告の必要がありました。
ナショナルギャラリーにある、有名なダヴィンチの岩窟の聖母はその宗派の教会のために作られました。
「やったこと、あったこと」を描くのはそれほど難しいことではありませんが、「やらなかったこと、なかったこと」を描くのは至難の業です。
無原罪の御宿りは、無垢を表すユリとマリアを表すバラが描き込まれていて、大概それとわかります。
因みにダヴィンチの絵は未完成のまま祭壇に掛けられました。
ところでクリベッリの絵画にはなぜかたくさんの野菜が無意味に描きこまれています。
大概、額縁のそば。
無意味という表現は不正確かもしれません。
もちろん意味はあるのでしょうが、明瞭ではないです。
そういったちょっとした面白さを見つけるのも絵画鑑賞にはいいかもしれません。